宝塚からの宅急便 No.32 文と写真:奥村森

2016.12.31 Saturday 11:21
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    Auguste Chabaud オーギュスト シャボー

     

    オーギュスト・シャボー

     

    プロヴァンス地方は数多くの芸術家に愛されてきた。豊かな自然をモチーフにした作品を描いたり、アトリエを構えたりもした。彼等の中にはプロヴァンスが故郷の者もいれば、晩年をこの地で過ごす者もいた。プロヴァンスには山も海もある。燦々と輝く太陽、青く広がる空も財産だ。素晴らしい環境に置かれた芸術家は、おのずと光の巧みと色彩感覚を身につけてゆく。

     

    アヴィニョンからアルルに向かう県道沿いにグラヴゾンがあり、そこにオーギュスト・シャボー美術館がある。画家オーギュスト・シャボーは日本ではあまり知られていないが、ヨーロッパではピカソ、マチィスと並び称される存在だという。美術館は小じんまりとした3階建だが、作品は生活感に溢れたものばかりだ。

     

    シャボーは1882年10月3日、南仏のニームで生まれた。1896年からアヴィニョンのエコール・デ・ボザールに学び、ピエール・グリポーラに師事した。1899年17歳の時にパリ・セーヌ川沿いにアトリエを構え、アカデミー・カリエール・ジュリアンで制作に励む。サロン・ドートンヌにも出展を始めた。そのアカデミーに出入りしていたマティスやピュイ、デュランと出会い、後にフォービズム運動を展開することになる。

     

    父の支援で優雅なパリ生活を送るシャボーであったが、1901年に父が他界、一時帰郷を余儀なくされる。その頃フランスは大不況で、ワイン作りを糧としていた一家の生計も切羽詰まった状況に陥っていた。シャボーは家計を助けるため、航海士のアシスタントとしてジブラルタル、ダカール、ラスパルマス、セネガルなどアフリカ西海岸を運航する船会社に数カ月間ではあったが就職する。

     

    だが、シャボーの画道への執念は消えた訳ではなかった。父の逝去で帰郷した際にも、暇を見つけては肉屋の包装紙にクレヨンで自分の生活風景を絵にしていた。航海中も詩、旅行記と共に、折々のスケッチを描いた。航海中浸水事故が発生、無事生還した船乗りの多くは関係者に「バケツで何杯もの水を船からくみ出した」と恐怖体験を語ったが、シャボーは「絵を描くに必要な水分を筆が吸収したので、多少は沈没を防ぐのに役立ったかも知れない」と危機に遭遇しても平然と絵画にこだわり続けた逸話も残っている。この体験記は「画集・アフリカの思い出」と題して出版されている。

     

    また、彼は徴兵され1903年から3年間チュニジアのビゼールへ行き、1914年の第一次世界大戦時にも再度入隊している。兵隊になるのは不本意だったが、先々でデッサンが出来るのを楽しみにしていた。戦争中には、毒ガスに襲われながらも塹壕でデッサンを描き、軍隊で起こった事件や風俗などの貴重な記録資料も残している。その成果が評価され、退役後に国から勲章を授与されている。

     

    1921年にグラヴゾンの村娘バランタン・スジーニと結婚、四男四女をもうけてムサン村で暮らした。以後、1955年5月23日に亡くなるまでの約40年間、グラヴゾンのアトリエに通いながら制作に没頭した。1919年からシャボーは村人、風景、農民、牛馬などをモチーフに選び、グラヴゾンに閉じこもるようになった。村人は彼を「グラヴゾンの仙人」と呼んだ。

     

    1928年に母が逝去し、家業を継ぐことになる。ビジネスに疎い彼にとっては歓迎するべきことではなかったが、経済的なゆとりも生まれ、創作に弾みがつくきっかけともなった。とにもかくにも、これほど絵が好きだった画家はいなかった。

     

    エコール・ド・パリの拠点であったモンパルナスは、多国籍文化が混合して新しい流れを築いた。同時にプロヴァンス地方も、歴史的に異文化を受け入れる土壌が芸術家を育てたのである。

    宝塚からの宅急便 No.33 文と写真:奥村森

    2016.12.31 Saturday 12:05
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      Le Mont Saint-Victoire サン ビクトワール山

       

      ポール・セザンヌ

       

      セザンヌは1839年、裕福な銀行家の息子として生まれた。中学卒業後、父の強い要望もあって法学校に進んだ。だが、好きな絵画制作や詩づくりも並行して行っていた。父が所有するジャ・ド・ブッファンの広大な屋敷の屋根裏部屋で創作に励んだと言われている。

       

      晩年に建てられたローヴのアトリエからはサント・ヴィクトワール山の素晴らしい景色を見渡すことが出来た。彼は亡くなるまでの数年間、ここで幾何学的な絵画空間の追求に没頭したのである。ピカソ、ブラックなど、キュービズムの画家たちがセザンヌの絵画や詩を敬愛したにもかかわらず、地元での理解は余りにも粗末なものであった。

       

      彼の死後、アトリエは放置され朽ち果てる寸前だったが、幸いにもアメリカのセザンヌ保存委員会によって手厚く補修され辛うじて難を逃れた。しかし、周辺は無計画に建てられた高層マンションによって、セザンヌが愛したサント・ヴィクトワール山の見える風景は今見る影もない。現在、エクスの観光名所となっているセザンヌのローヴのアトリエは小高い丘の上にある。小さな門を潜ると、樹木に覆われた簡素なアトリエがある。

       

      1906年、セザンヌが亡くなった時、そのままにアトリエは保存されている。壁には彼のコートが掛けてあり、イーゼルには描きかけの絵が置かれ主人を待っているように見える。写真撮影を出来るか管理責任者らしき老女史に尋ねてみるが、彼女は私達の話も聞かずに、眉間にしわをよせ「ノン、ノン」と追い出す素振り。その無礼な対応に驚かされた。

       

      これでは、セザンヌが好きな人でも一挙に熱が冷めてしまう。多忙で気が回らないのかも知れないが、文化資産を管理する人は、画家の精神を汲んで心して対応して欲しいものだ。さもないとアメリカ保存委員会の努力も水の泡になってしまうし、ファンを失う結果になりかねない。これではセザンヌも草葉の陰で泣いていることだろう。

      宝塚からの宅急便 No.34 文と写真:奥村森

      2016.12.31 Saturday 13:17
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        Daniel Pernix’sfamily ダニエル・ぺル二さんの家族 Les Carrieres du Val d'Enfer Les Baux de Provence

         

        ダニエル・ペルニ

         

        1996年5月、ダニエル・ペルニさんを訪ねた。彼の工房は、田園地帯に垂直に切り立つ岩山の頂上から1キロほど下った「カテドラル ディマージュ」と呼ばれる急斜面にあった。事務所兼アトリエは、石灰岩の大きな岩山をくり抜いた洞窟内にあり、入口には彼の彫刻作品が並べられている。柔らかな曲線で表現される作品と豪快な岩山が調和して面白い。

         

        プロヴァンスは芸術を学ぶには便利な場所にある。フランス国内は元よりイタリアにも容易に訪れることが出来るからだ。ダニエルさんはイタリア北東部のアドリア海に隣接する都市、ヴェネツィアの文化財修復学校で学んだ。作家活動同様に「僕は何でも創る石職人」と修復師としての誇りを持っている。

         

        彼の重要な仕事の一つに教会の修復作業がある。とりわけ聖堂は、神の家として強い象徴性が要求される。そのためか作品には鳥獣顔をした守護像が数多く見受けられる。ダニエルさんのヴェネツィア留学は技術習得、東方・北方文化とのふれあい、修復作業を通して歴史遺産の重要性など精神を高める貴重な体験となった。

         

        1959年、彼は、サン・レミで生まれた。サン・レミはゴッホが1888年にアルルで精神病発作から左耳を切断する事件を起こした後、入院したホスピスで精神病院でもあった旧サン・ポール・ド・モーゾール修道院がある町として知られている。

         

        ダニエルさんは、ゴッホの愛人であった「ラケルの裸像」を作品化している。素材は、アトリエのある場所で産出する石灰岩を使っている。ほどよい硬さが彫刻に適しているのだという。「ラケルの裸像」は円やかな曲線で東洋的エロティシズムが感じられる。

         

        郷土の話をモチーフにして地元素材を使い、ヴェネツィア的感覚が生かされ、プロヴァンスの恵まれた芸術環境に相応しい作品だ。彼は、早朝から夕方まで工房で作業を続ける。仕事場には、助手1人しかいないので営業活動もこなさなくてはならない。彼は妻のシルヴィーさんと3歳になる娘のノエミーちゃんとの3人暮らし、家族の生活はダニエルさんの双肩にかかっている。

         

        昼時になると、シルヴィーさんがノエミーちゃんを伴って弁当を運んで来るのが日課だ。ノエミーちゃんは訪れた異邦人に臆する気配もなく、握手とキスで迎えてくれた。国際性豊かなプロヴァンスならではと感心させられる。そうかと思へば、カメラを向けると突然泣き出してしまう子供らしいシャイで素朴な一面も覗かせる。

         

        「シルヴィーとノエミーのお陰で、安定した気もちで仕事に集中できます。昼食をとりながら家族団欒の時間を過ごせるのも最高。もし自分の工房が都会にあったなら、こんな充実した日々をおくることは出来なかったでしょう。プロヴァンスに満足しています」とダニエルさんは満面の笑みを浮かべる。

         

        彼は夕方になると、20キロ離れた自宅に帰る。アトリエの留守を預かるのは愛犬の役目。普段はおとなしい愛犬だが、夜は主人の大切な作品を護る役目をしている。プロヴァンスは地中海を通じて多種多様の人種や文化を受け入れてきた。加えて、芸術コミュニティーの構築意識も強く、家族を大切にする土壌もある。やはり、プロヴァンスは芸術家が創作するに必要なすべての条件を満たす「母なる大地」なのかも知れない。

         

        現在、ダニエルさんの Val d'Enfer にある彫刻アトリエのは、個人や企業の様々なエンターテインメントを行う壮大なイベントスペースが創設されている。収容人員は200人。結婚式、セミナー、絵画個展など、ビデオ投影設備も完備され、白い石灰岩の壁に大きく映し出された絵画画像も見ごたえがある。屋外イベントも木々の茂った1ヘクタールもある広い会場で行なわれている。またプロヴァンスに行く機会があったら是非訪ねてみたい。


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